今日この恩賜は個人として消化させることのできる恩賜でなく、国と世界とともに消化すべきとてつもない恩賜なのです。これを考えるときに、「私がこの恩賜をどれほどありがたく考えるか」というのです。私がこの恩賜に対して腰をかがめるようになるときに、この恩賜が、先祖たちが百回千回腰をかがめて努力した土台の上に連結されたものなら、自分は千回万回腰をかがめても足らないということを感じようとする心を持たなければならないのです。そのみ旨を愛し慕うにおいて夜でも昼でも時間を加えるのに努力し、血と汗を流そうという努力があってこそ、先祖たちが私たちを訪ねて、その精誠を集めて受けた恩賜を私たちに任せるのではないかというのです。その恩賜が今日私たちを訪れた恩賜であり、そのような責任を負った私たちだというのです。(1971・5.・1、前本部教会)